子どもの頃に自宅に家政婦さんが住んでいた、あるいは通っていたという家庭で育った人は、それが当たり前だ・・・という観念を持って大人になっていきます。
私も含めて多くの家庭では、そうした環境下ではなく、「自宅に家政婦さん」という発想すらないまま育っていると思います。
これが、海外・・・フィリピンあたりに行くとその比率はグンと上がって「自宅に家政婦さんがいる」ということがある程度の家庭では当たり前・・・になったりするそうです。
まさにところ変われば品変わる・・・です。
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もし自宅で家政婦さんを雇ったら?
そのときは「雇う」概念を持った以上、部屋の掃除などをしてもらってどこかが終われば次またどこかを掃除してもらうとか洗濯をしてもらうとか、時間の許す限りいろいろ働いてもらうと思います。
そんなときに、その家政婦さんが勝手に休憩をとっていたり、サボっていたりしたら雇主としては叱るでしょうし、場合によってはクビにするとか給料を減らすなどの罰を与えるかもしれません。
そのときの発想は「給料払ってんだから真面目に働けよ~!」でしょうね。
雇用者の発想はまあだいたいこんなものです。
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同じことが普通の企業・・・サラリーマンに対しても言えます。
サラリーマンが会社に雇用されて働くということは、そこの経営者に雇われているわけで、社長からみれば「こっちは給料払っているのだから真面目にしっかり働きなさい!」となります。
勝手に休憩を取ったり、サボっていたら当然叱られます。
雇われている立場の人(サラリーマン)は、自分に都合の良いようにしか考えないものですが、面白いのは雇っているほうも同じく自分に都合の良いようにしか思わないもの・・・だということです。
雇う・雇われる・・・ということは、そういうモノでしょうね。
大事なことは自分の立場でしか物事を見ないのではなくて、自分の立場でも相手の立場でも両方の視点で物事を見るということと、その環境がもしイヤだと思うなら環境が変わることを期待しないで、自分が変わるしかない!・・・ということです。
つまり、サラリーマン(雇われ人)がイヤだと思うなら脱サラするしかないし、それができないのなら甘んじて受け入れてその中で生きるしかない、ということです。
自分の心に正直になって、自分の思うがままに(ただし周りに迷惑をかけることなく)、自分の行動は自分で舵取りすることが大切です。
自分で家政婦さんを雇って雇用者の経験を味わうと、見る目が変わって視界が開けるかもしれないですね。