こんな例え話があります。
昔、あるところに全財産を金塊に換えて人里離れた山中に埋めた男がいました。男は金塊が気になって夜もぐっすり眠ることができす、絶えず盗まれていないだろうか?と不安でなりませんでした。そのため、男はその埋めた場所へ何回も行って掘り返し、無事を確認していました。
あるとき、そうした行動に不審を抱いた近所の悪党が、こっそり男の後をつけて行き、そして男の秘密を知ってしまった!のです。悪党ですから、することは一つです。次の日、いつものように山中にやってきた男は、その場所を掘り返そうとして卒倒せんばかりに驚きました。
隠し場所が既に掘り返されて、すべての金塊が盗まれていたから!・・・です。
男は「もう、生きる希望もない」・・・と、いつまでも悲嘆に明け暮れました。
そんな日が長く続いたある日、ある人がこう言いました。「そんなに悲しむのはよしなさい。あなたは、お金を持っていたようで実際は持っていなかったのと同じなのですから。お金は、使うためにあるのです。それなのに、あなたはお金があったときも使おうとはずに金塊に変えて後生大事にしまっておいたではないですか。使わない金塊なら石と同じです。いっそ同じ場所に石を埋めて、金塊だと思ってまた毎日掘り返して眺めていればそれで安心するのではないですか」
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「お金は使うためにある」・・・この平凡で単純な真理を理解できない人がいないはずはありませんが、理解しても実践にはなかなか至れないという不思議さが人にはあります。
そこにあるのは「将来の不安」のせいかもしれません。
「将来の不安」が、人のお金を使う行動にの制限をかけて「待った!」をしています。
お金を貯めるだけ貯めて結局使わずに死んでしまったり、あるいは罪を犯して捕まったりしては、せっかく貯めたお金もパーです。
お金の使い道に無頓着なのはもったいないことだと思います。
お金を稼ぐのにどれだけ自分が智謀を尽くし、時間を費やし、意識を集中させたのか?を思いして、それと同じように「お金の使い方」にも同じように智謀を尽くし、時間を費やし、意識を集中させると良いと思います。