世の中には「先見力のある人」と「先見力のない人」がいます。
先見力のある人は、今現在よりも未来を見ていますので、「今こうしなければ将来こんなヒドイことになってしまう」と先読みして、将来を憂えて「今なすべき行動」を選択したり他者にもそれを推奨・協力を訴えかけたりします。
ところが、その「今なすべき行動」というのは努力・試練・困難・苦しみなどがつきまとうことが多いため、単純にそれだけをみると、むしろ「やりたくはない行動」に映ります。
ほとんどの人は「今のラク」を求めがちですから、そうした行動をとることができません。
でも、先見力のある人は先見しているがゆえにその行動の必要性をあきらめずに訴えかけます。
でも、残念なことに先見力のない人にはどんなに理論構築をして訴えかけても、あるいはイメージを伝え続けても、その人自身が共感できない限り理解することはできないものです。
行動を起こすには「共感・感情的納得」を必要とします。
人の価値観はそれぞれで、どちらか一方だけが正しくてもう片方は間違っているということはありません。
言うなれば、どちらも正しい・・・です。
そして、「先見力のない人」が最後にとる手段・・・先見力のある人の言い分を無視するために手に取る武器があります。
それは「多数決」です。
凡人は天才を抹殺できる「多数決」という名のナイフを持っているのと同じように、「先見力のない人」が「先見力のある人」をダメにする非情な武器は「多数決」です。
多数決はうまく使えばとても有効ですが、使い方を間違えると非情な武器になってしまいます。
サラリーマン社会でも、多数決はよく用いられる「議案の決定手法」ですが、ときと場合によっては「トップダウン」による指示のほうが正解だったりすることがあります。
決め手になるのは「先見力があるかどうか」であり、先見力のある人の意見に対しては多数決という手法を用いるのは得てして誤りになることが多いものです。
リーダーは無能では困りますが、ここで言う「無能」の枠組みの中の一つの項目は「先見力があること」だと思います。