
先月の衆議院選挙が終わって1か月が経ちます。
世間では、政治・経済が渾沌(混沌・こんとん)としている・・・などと言われたりしていますが、この「渾沌」とは無分節とか無分別のことを言い、「秩序」の対立語として用いられます。
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荘子に『渾沌』という話があります。
南の海を治める帝を儵(しゅく)と言い、北の海の帝を忽(こつ)と言い、中央の地を治める帝を渾沌(こんとん)と言いました。
「儵」は「たちまち/はかない」という意味、「忽」は「にわか、つかの間」という意味で、「渾沌」は「何も分からぬもやもやしたもの、入り乱れた無秩序」という意味です。
ある時、儵と忽が渾沌の地で思いがけず出会い、渾沌は儵と忽を大変手厚くもてなしました。
儵と忽は、渾沌の好意にどうやってお礼をしたらいいだろうかと相談しました。
「人には7つの竅(あな)が具わっていて、視たり、聴いたり、ものを食べたり、息をしたりしているのに、渾沌にはその竅がないな。もてなしのお礼に竅を一つ掘ってあげようではないか」ということになり、儵と忽は一日に一つずつ竅を掘っていきました。
ところが、渾沌は7日目に死んでしまった。
目に2つ、耳に2つ、鼻に2つ、そして口1つの穴で計7つ・・・これを全部開けたら渾沌は死んだのです。
なぜか?
渾沌にとって「穴のない状態」は欠点ではなく、まだ何者でもない「無限の可能性」の象徴だったからです。
結果的には、良かれと思って「整えた」ことがその存在が有する自由や生命力を奪ってしまった・・・わけです。
他者が思う「良かれと思う整え」が、実は「その者本来の自由や可能性を奪ってしまう」ことがあることを、この荘子の渾沌の話は教えてくれています。
こじつけて言うなら、「渾沌がいけない」のではなく、「渾沌を受け入れることが大切」という教訓です。
人は長年の教育・学習で「秩序正しい」ことを尊び、「無秩序を嫌う」傾向がありますが(←これはこれで正しいと思います)、ときにはあえて混沌を受け入れて「そこから生み出される新たな秩序」を期待することも大切な気がします。
























