『論語』の中にこんな話があります。
ある村の長官が孔子に言いました。
「私の村では、父親が羊を盗んだことを子どもが正直に役所に届け出ました。
何とすばらしいことでしょうか!」
ところが孔子はこう言います。
「私の村ではそういう事例はありません。
父は子のために子の罪を隠して庇い、子は父のために父の罪を隠して庇います」
どちらが正しい考え方か?・・・といえば、人によってその判断は分かれる話かもしれません。
でも、ここに「世界の中で国家間の争いで互いの価値観が交差して折り合わない」ことの本質が隠れているような気がします。
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芸能界では覚せい剤などの所持・利用で逮捕者が出たときに、実は前からそのことを知っていたけど何も通報しなかった・・・という人が背後に隠れていると思います。
良くも悪くも「知っていたけど隠した」というパターンで、上の例でいえば孔子の説く側に該当します。
その人の価値観・哲学では通報しなかったことが「愛情」であり、あるいは「善」だと思い込もうと葛藤していたかもしれません。
でも、結果的にその人の罪を長びかせてしまったことにもなります。
「法律・社会よりわがまま・家族愛を上位に置く価値観」を突き詰めていくと、結果的には「公」より「私」を重んじる方向に向かいます。
まあ、ちょっとした軽い事例であればそれもまたアリだとは思うのですが、やはり行き過ぎると全体の利益を大きく損なうことになりかねません。
そうなるとうまくないと思います。
「私」や「一族」の利益のためなら法律を犯すことに何ら躊躇しないという風潮だと、みんな好き勝手に自分の都合でしか物事を判断しなくなり、社会全体がおかしくなります。
中国が世界の中でも特異な価値観をもって世界から厭われ、国際社会から孤立を深めてきているのは、こうした価値観(公よりも私を重んじ過ぎる価値観/法の下に組織があるのではなく組織の下に法があるという構造)が大きな要因となっているように思えます。
公のルールを守ることよりも「自国の利益/自分とその一族の利益」だけを守ることのほうが重要だという価値観が世界で通用するようになると、もはや文明社会とは言えず、支配・奴隷・動物社会に成り下がるような気がします。
いわゆる「野蛮/蛮族の支配」に該当するからです。
社会道徳や公共心を自分の生きざまの一つとして適切に持つことは本当に大事だと思いますし、幼いころからの躾や教育がやはり重要だと思います。