論語のなかに「耆(き)」という言葉が出てきます。
「六十は耆(き)」ということですが、ここで「老」という文字と「旨」という文字のが合わさりあって「耆」だと解釈すると、面白いと思います。
「旨」という字は「うまい」という意味です。
「旨い」というのは、複数の味をミックスしたような例えようのない妙なる味のこと/デリケートな味のことを意味します。
決して甘いとか酸いといった単純な味ではなく、それらを複合的にミックスした何とも言いようのない味が「旨い」です。
だから、そう考えると人生を長く生きてきた先達の立場にある人・・・そうした60代の人に対してこの「耆(き)」という字を当てる・・・というのはなかなか良くできているのかもしれません。
また、「旨い」という字に手ヘンをつけると「指」という字になります。
指というのは非常にデリケートな感覚を持っています。
昔のお医者は「手当て」といって手で病気を診断しましたが、それくらい指というのは非常にデリケートにできています。
さらに言うと、「旨い」に魚ヘンをつけたら「鮨(すし)」という字になります。
「鮨」というのはいろんな味をミックスして例えようのない味のことを指しているのかもしれません。
また、「旨い」に口ヘンをつけると「嗜む(たしなむ)」という字になります。
同じ味わうにしても、「嗜む」というと深みのある意味合いになります。
「耆」という文字にはそうしたニュアンスが込められていると解釈できます。
だから昔は60歳にもなると、人生の酸いも甘いも多くのことを経験して、何とも言えない風味豊かな人間味のある人物になっていることを言ったのかもしれません。
現代に置き換えると70代から80代くらいに該当すると思われますが、いずれにしても若い頃にはないその人の味というのが醸し出されてくるのはやはり60代以降のことだと思います。
「耆」の下に「徳」をつけると「耆徳(きとく)」となり、60歳を過ぎると「耆徳」という徳ができることを意味します。
その徳を大いに世のため人のために普遍しうる・・・ということであれば、本来からいうと本当の人生は六十からだとも言えそうです。
私は今日で59歳になります。
60歳まであと一年・・・、この一年を有効に過ごすことで「耆」を獲得できるかどうかにかかっていると言えそうです。