子どももサラリーマンも、「自己保身に走る」ときには似たところがあります。
自己保身の常套手段は「ウソをつくこと」です。
たとえば、子どもは学校から帰ってくるとランドセルを置いてすぐに遊びに出かけようとしますが、そんなとき親が「宿題をしてからにしなさい!」と言うと、「今日は宿題がなかった」などとウソをついて遊びに行こうとします。
子どもが自分の身を守るために用いる最大の武器が「ウソ」です。
ウソをつく子どもがいけないのはもちろんですが、それを通じさせてしまう/ウソを見抜けないでしまう親のほうにも若干の責任はあります。
何の責任か?・・・というと、子どもに「あれっ!ウソをついても大丈夫なんだ~」と思わせて、誤った道を歩ませてしまう責任です。
親に「ウソがまかり通る」ことに味を占めた子どもは、先生にも友だちにもウソをつくようになるかもしれません。
それは、すべて「自分にとって都合の良いようにしたいとき」に発動します。
そういう子どもは大人になっても「ウソをつく」ことに罪悪感をあまり感じなくなり、恋人にもウソをつき、就職して上司にもウソをつき、取引先にもウソをつき、気がついたらいつの間にか「ウソだらけの人生」を歩んでいることになりかねません。
昔から「ウソつきは泥棒の始まり・・・」と言われています。
実際、ウソをつくと信用を失いますし、一事が万事で(泥棒とは言わないまでも)悪事に手を染めてしまう恐れが高まります。
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サラリーマンも、ウソをつく人は見る人が見ればすぐに分かります。
そして、「あー、あいつは信用できない奴だな」とすぐに「信用できない奴」のレッテルを貼られて終わりです。
人間性を信じてあげたいのはやまやまですが、ウソをつく人の話はもうすべてがウソのように聞こえてしまうのも事実ですから、人間性も信じてもらえず、当然、人事評価も低くなります。
人は信じている相手だからこそ、心の底から励ましたり、応援したりできるものです。
子どもの頃はたとえ人間性は信じてあげても、決してウソだけはつかないように育てることが大事です。
自分の悪さを隠すためのウソは、断固として叱って矯正しなければいけないと思います。
仮に、ウソが通用する家庭とウソが通用しない家庭で育った子どもがいた場合、少年→青年→社会人となっていくにつれ、悪い方向へ誘(いざな)っていかれずに済むのはやはり後者のほうだと思います。
子どももサラリーマンも「目上の人にウソをついてその場の難を逃れようとする」姿勢は、しっかりと楔(くさび)を打って正してあげることが大事だと思います。