
キリスト教カトリックの国では、労働は罰であり奴隷がするもの・・・という労働観があるとされています。
アダムとイヴがリンゴを食べてしまい人は罪を償うため額に汗して働かなければならなくなった・・・。
「労働は神から与えられた罰・苦しみ」という概念は古くは古代ギリシャ時代から考えられてきたようです。
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「資本主義」社会では「No Money, No Honey(お金がなければ、蜜もない)」というのが常識です。
人は「お金を得る/稼ぐ」ために手っ取り早く「働いて稼ぐ」という行為に出ます。
「働いて稼ぐ」ことは学校の授業で教え説くわけではなく、親から子へ・・・DMや雑誌・週刊誌の情報を元に・・・先輩・知人からそう言われて何となく・・・人々の心に沁み込んでいきます。
そうやって、広く、誰か(多くの場合は会社)に雇われて「給料をもらう≒安定した収入を得ることが正しい人生」・・・として認識しているのが一般的な人の生き様です。
労働そのものが富を生むわけではなく、むしろ資本に奉仕する手段として利用されている・・・という考え方は西洋の概念に近いものがあります。
どちらが正しいというわけでもなく、大切なのは「自分はどっちの道を選ぶことにするか意識して決断すること」・・・だと思います。
ただし、「働いたら負け」・・・とまでは言わなくても、「『働く』で止まる発想のままではいけない」という認識を持つほうがベターだと思います。
実際、世の中にはまったく働かなくてもお金を手に入れている層が存在しています。
それは「資本を持つ者たち」です。
たとえば、企業の株式を保有する者=株主は、従業員が必死に働いて得た利益の一部を「配当金」として受け取ります。
お金を稼ぐ手法にもいろいろあり、しかもどんな手法を採るかは個人の自由です。
すべて、個人の選択と決断に委ねられています(自由な国では)。
1日は24時間しかなく、働ける時間には限界があります。
体力や年齢の制約や病気や事故、リストラといったリスクにも晒されているのが一般的なサラリーマンです。
そうした不安定な収入状態のままで本当に良いのか?
それとも、資本収入のように各種の制限を受けない状態に移行するのか?
どうせなら資本主義の仕組みをうまく利用したほうがいいと思いますし、そもそも資本主義の構造・本質に気づいていないようなら早く勉強して気づくことが大事だと思います。
























