「線」というのは不思議なもので、人心に何らかの区別を設けさせてくれます。
線が引いてあるところを境に、あっち側とこっち側とでは別次元/別世界・・・という認識を与えてくれます。
人は誰であれ「他人に干渉してほしくない領域」というものがあり、「干渉されてもいい/干渉されたくない」という領域の一線を無礼に跨がれると、大小の差はあれ怒りが沸々とわいてきます。
大人になって社会人になれば、人はそうしたことを学び、他者の大事な「一線」を無礼に越えることがないように配慮する姿勢が求められます。
これが一つの「礼節」です。
ところが、中にはそうした礼節を知らず、弁(わきま)えていない大人もいるので、世の中はどんどん窮屈になってきた感があります。
礼節を弁えていない人は無神経で無礼な人で、大人の顔をした子どもレベルの人です。
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子どもの中には、大人から何回注意されても叱られても他人に迷惑をかけてしまう子がいます。
他人の心を慮(おもんぱか)る力量が足りず、自分の感情のまま言動をとり行なう子です。
そういう子に足りないのは、知識や経験もそうですが、見方を変えればやはり一つの「線引きができていないこと」だと思います。
そういう子は「この辺まではいい、ここからはアウトという線引き」ができていません。
だからいつも誰か他の人に線を引かれて最後にはガツン!と言われないと、そのはみ出た線から元に戻ることができないのだと思います。
たとえば、「授業中に変な音を立てる」とか、「バスや電車内で暴れる」とか、「レストランで騒ぐ」といったこともすべて「(越えてはいけない)一線」を越えてしまったことによるものです。
まだまだ幼い子は仕方ないとしても、小学生になり学校教育を受けている年代にもなってくれば、ある程度の判別(=線引き)を学び身につけることが求められます。
それが社会で生きていくための素養になるからです。
でも、高学年になっても幼いままではいけません。
自分の言動については「自分で線を引ける」のが高学年です。
そして、それが「自律姿勢」につながります。
ここまではセーフでここから先はアウト!・・・という線引きは、大人になって男女の関係や、仕事におけるハラスメントの境目においても重要な観点になっていきます。
たった一本の細い線であっても、そこに何らかの見えない線があるのかないのかに気づき、その一線をむやみやたらに超えないように配慮する姿勢が大切です。
その違いによっては後々に大きな災いにつながる・・・と知っていくことは大事だと思います。