「自分でがんばって稼いだお金」・・・という表現をとても頻繁に使う人は、もしかすると、お金を稼ぐには一生懸命に働かなければいけない(がんばらないとお金は手に入らない)というパラダイム(考え方)の持ち主かもしれません。
そういう人は、幼い頃からきっとそういう教育を受けて育ってきたのだと思います。
もちろん「がんばって働くこと」は大切ですが、がんばって働いてもお金が手に入らないこともあります。
それは、基本的に「稼ぎ・お金」というのは「他人に価値を提供した場合/他者への貢献度合いが高かった場合」に対価として頂けるもの・・・だからです。
だから、「価値を提供できていない/貢献が低い」場合には対価として認められず、稼ぎ・お金が手に入らないこともあるのが大原則です。
でも、それだと生きていくことができない、という人が出てきます。
すると、「それは可哀そうだ、何とかしよう」となり、仮にそれほどの価値の提供や貢献がなくても、別の観点で見て「一定時間はそれなりに働いたということを認めてその労働した時間に対して対価を支払おう」という考えが出てきました。
それが「労働時間に対する賃金」という発想です。
このときの賃金の支払いは、本来、そこでキチンと「労働」していることが前提です。
その労働時間に対して賃金の支払いを認めたものですが、今や、さらにその考え方は緩くなっていて、「労働したかどうかのすべてを把握することは面倒なので、この際、労働したかどうかよりも、就労したかどうかで賃金を支払うことを約束しよう」・・・という流れになってきました。
つまり、サラリーマンで言えば、1日8時間拘束で、その8時間のあいだずっとキチンと仕事をしていなくても(たとえばタバコを吸いに行ったり、トイレへ行ったり、周りと雑談をしていたり、机でボーッとしていたり、眠っていたり、意図的にサボっていても)、とりあえずは8時間の就労をしたならその分の賃金を支払ってもらえることになったわけです。
私がよく「就労収入」と呼んで「労働収入」と呼ばないのは、こうした違いで使い分けているからです。
話は戻りますが、本来、お金は一生懸命に働いた(がんばった)人の元に集まるのではなく、価値を生み出したり、価値を提供したりする仕事をした人の元に集まるものです。
変な言い方ですが、善い行ないをした人の元ではなく、お金を生み出すだけのことをした人の元に集まるわけです。
お金を生み出したと評価されるだけのキチンとした仕事をして、その分の対価をありがたく頂くという姿勢を持つことは大切だと思います。