売買(購買)というのは、基本的には「等価交換」を前提に成り立っていると言われます。
100円の魚を買うときは、それが100円という価値である・・・ということを前提に購買しているわけです。
昔、お金が登場する前は「物々交換」で行なわれていました。
ところが、物々交換には欠点がありました。
一つは、自分が欲しいと思うものを相手が持っているとは限らない
一つは、自分の持っているモノの価値を相手が正当に評価してくれるとは限らない
一つは、価値の差額を解消する手段がない
・・・などです。
そこで重宝となって登場してきたのが「お金」という概念です。
お金は全国共通で同じ価値を共有することができます(← 逆に言うと、同じ価値を共有するという前提で編み出されたと言えます)。
お金を使った売買であれば、自分の持っているモノをまずお金に換え、そのお金で自分が欲しいモノを買うことが可能tなります。
また、価値に差額が生じた場合にはその差額のお金を「お釣り」として相手に渡すことで売買がスムーズに行えるようになりました。
そのため「お互いに相手の持っているモノを気に入る」という概念が必要なくなり、お金を持ってさえいれば欲しいモノを購買できるようになりました。
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物々交換は「等価交換」です。
「等価」であることが大前提であり、だからこそお互いに納得して売買(交換)をすることができました。
ただし、ここで重要な盲点が一つあります。
それは「とらえる価値の尺度は異なる」ということです。
どういうことか?と言うと、自分が持っているモノは「それを手に入れるためにどれだけ苦労したか」で測り、相手が持っているモノは「それが自分にどれだけ役に立つかで測る」・・・ということです。
人は、自分が苦労して手に入れたモノを手放すときは「もったいない」と思います。
たとえそれが役に立たない/使えないシロモノであっても、それを得るために費やした苦労で測ってしまうためにそう思うのだと思います。
ところが、相手の持っているモノに関しては、相手がどれだけ苦労して手に入れたかなんてわかりませんから、「そのモノが自分にとって役に立つか?役に立るならどの程度役に立つのか?」という観点のみで価値を測ります。
だから、自分にとって役に立たないものだったら、相手がどんなに 「これを手に入れるのにどれだけ苦労したかわかってのかよ~」と言っても、「そんなこと知らない/こっちには関係ないね」で済ませてしまうわけです。
このように、自分のモノと相手のモノを同じ基準では見ていない・・・というところに物々交換における「等価交換の盲点」があります。
だから、物々交換はとても面倒だし、なかなか成立しにくいのだと思います。
したがって、やはり第三者的に全国共通の価値観を持つ「お金」は有効になります。
今ではお金がなければ経済社会はまわらなくなっています。
お金があるからこそ、人は遠く離れた人とでも売買(交換)をすることができて、欲しいモノを手に入れ、要らないモノを売却することを容易にできますし、形・呼び名は変わってもこの本質的要素だけは今後も重要になると思います。